日々の学び:三島由紀夫『不道徳教育講座』

三島由紀夫が井原西鶴の『本朝二十不孝』にならって書いたユーモラスな逆説的道徳のすすめ。ウソ、いじめ、忘恩などの悪徳を奨励し、内的欲求を素直に表現することで、近代文明社会が失った健全な精神を取り戻そうとする。そして「自分の内にある原始本能を享楽すること」こそ文明人の最大の楽しみと説く。
人間が本来持つ悪への志向を抑圧するのではなく、陽性の行為に表すことによって悪が沈静化するという主張は人間心理を鋭く見抜いており、既存の常識への抵抗を使命とする芸術家の基本姿勢でもある。結果として、まじめな道徳教育に帰結している本書は、逆説のおもしろみや機知に富んだ文章、作家の素顔をのぞかせるエピソードなどのくすぐりが満載でおもしろおかしく読むことのできる箴言集となっている。1958年の「週刊明星」に連載されたものだが、世界の中の日本を問う三島の国際人的意識は今日的であり、現代の社会を見通す鋭い眼差しにも驚かされる。(林ゆき)

『金閣寺』はじめ文学家としてはゴリゴリの純文学作家として有名な三島由紀夫だが、このエッセイ?ではなかなかに思想が強い。そのめちゃくちゃな内容の中に「文学」と「私生活」を分断し、どちらにも本気だった三島由紀夫の思想がかなり見えてくる。心に残ったエピソードをいくらかご紹介。

弱いものをいじめるべし

「弱い者」というのは、むしろ弱さをすっかり表に出して、弱さを売り物にしている人間のことです。この代表的なのが太宰治という小説家でありまして、彼は弱さを最大限の財産にして、弱い青年子女の同情共感を惹き、~お人好しの元オリンピック選手の巨漢は、自分が肉体的に強いのは文学的才能のないことだとカンチガイして、太宰の後を追って自殺してしまいました。これは弱者が強者をいじめ、ついに殺してしまった恐るべき実例です。

いきなり太宰を痛烈にディスるわけだが、これは確かにと。自然界では「弱肉強食」が自然なわけで、「かわいそうなあなた」は本来存在しないはず。
弱者が強者を殺せるのは人間だけの特異性だろう。特に昨今ではSNS始め、強者が世間から責められる傾向にある。「たりないふたり」だ。弱いものをいじめる精神が大事と言いたいのかと思いきや、三島由紀夫はそっと弱者に回ることを勧める。三島由紀夫はマッチョを演じる繊細な人だったんだろうと想像できる。

キャッチフレーズ娘

世間というものは、一人一人にそんなに個性に富んだ意見などを要求しやしない。

悲しいかな、現代の僕らはなおさら情報過多の世界で「ありきたり」の言葉を吐く場面が多い。

それは喋っているのではなくて、出来合いの言葉に喋らさらているのであり、現代マスコミ文化という神様の託宣が、その口を借りて滔々と流れ出す神がかりの霊媒のような存在なのです。

文学研究の手法としてテクスト論があったが、同じことを自分に当てはめてみることが大事なのかもしれない。

オー・イエス

外国人と自然な態度で附合うということが、日本人にはもっともむつかしいものらしい。

「オー・イエス」と適当に英語を話してしまう日本人。それを皮肉ぶってとらえるのではなく、英語を話せなくても学問で業績を上げる日本人の方が国際人なのではないか、という指摘をしている。個人的には業績も英語もどっちもあればいいとは思うのですが、時代の流れだろう。

プラスティックの歯

持って生れた体が完全に廃品になる頃には、すでに人工肉体で生れかわっているというわけです。

『攻殻機動隊』で描かれていたような身体論的考えが述べられた章だ。果たして私はどこからが私なのか。私を形成しているのは肉体なのか、精神なのか。昨日の私は今日の私と同じなのか。身体論的なテーマに対する三島の回答は、

「私が所有する」これで十分。

妙にマッチョな答えだ。精神マッチョ三島・

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