我思う故に我あり
デカルトの本を読んでいなくてもこの言葉を知っている人がほとんどだと思う。自分の存在、神の存在は自分の内側にあり、それを否定できない以上自分と神は存在しているという意味。この考え方の裏にあるのは相手を説得するような論理的思考、極めて近代的な科学的な思考だ。
一方スピノザは全く違う思考で人の「自由」と「意思」、「神」の存在を証明しようとた。当時の政治状況の中で、
「なぜ民衆はこんなにも頑迷で理を悟ることができないのだろう、なぜ彼らは自身の隷属を誇りとするのだろう、なぜひとびとは隷属こそが自由であるかのように自身の隷属を「もとめて」闘うのだろう、なぜ自由をたんに勝ち取るだけでなくそれを担うことがこれほどむずかしいのだろう」
という問題意識をスピノザは提示する。そんなスピノザの入門書。
エチカ
「エチカ」はEthic(倫理)の語源の「エートス」を語源とする。
「エートス」は、慣れ親しんだ場所とか、動物の巣や住処を意味します。そこから転じて、人間が住む場所の習俗や習慣を表すようになり、さらには私たちがその場所に住むにあたってルールとすべき価値の基準を意味するようになりました。
エチカという言葉の裏には、自分の現在地や環境の上で、どう生きていくかという問いが常にある。
神は無限である
無限であるということは限界がないということ、すなわち「ここまでは神で、ここからは神ではない」と線が引けないということ。全てが神の中にあり、神がすべてを包んでいるので、スピノザは神を宇宙のような存在として自然と同一視した。
つまり自然は神であり、人間を含めた万物は自然の法則に従い存在していて超自然的なものは存在しない。これは萬の神のように日本人には身近な感覚だ。スピノザの考えでは、私たち個物は神という実態の変状である。変状はあとで説明する。
完全と不完全、善悪
スピノザは完全と不完全と言う概念をよく使う。すべての個体はそれぞれに完全で、自然の中にある「不完全」なものは人間がただそう思っているからという偏見でしかないとスピノザは考えている。物事の善悪という考えも本来存在しておらず、「善い」「悪い」は全てその組み合わせの中で全て決まることになる。
活動能力
スピノザは「善い」「悪い」という表現をしない代わりに「活動能力を拡大させる」という言い方をする。例えば、悲しい時に聞く明るい歌は気持ちを助けてくれる、つまり元々持っていった力を高めてくれる=「活動能力を拡大させる」わけだ。
先述の「完全性」も踏まえて、スピノザは「不完全」から「完全」に、「善い」から「悪い」ではなくて、より「小さなる完全性」からより「大きな完全性」へ移ると言う言い方をする。
キリスト教的な、宗教的な一元的な道徳観でなく、あくまで「善い」「悪い」は個人で決まるもので、あくまで組み合わせだということだ。元気な人が聞く明るい歌は持つ意味が変わる。逆に妬みのような感情は、自分たちを小さい完全性移していく感情、すなわち「活動能力を低下させる」マイナスの感情だと定義づけている。
コナトゥスと変状
個体をいまある状態に維持しようとして働く力のこと
元々古代ギリシアの哲学では「本質」をform(見かけ、外見)の外見である「エイドス」だと考えていた。
女性は女性の見た目をしているから女性としての生き方を強要されると言うような考え方。スピノザはそれに対して「本質」はコナトゥス、つまり物の形ではなくて物が持っている力である。
ちなみに「本質」って哲学の言葉らしい。知らなかった。
たとえば農耕馬と競走馬とのあいだには、牛と農耕馬のあいだよりも大きな相違がある。競走馬と農耕馬とでは、その情動もちがい、触発される力もちがう。農耕馬はむしろ、牛と共通する情動群をもっているのである。
このように同じ馬でもコナトゥスが違えば「本質」は違う。
異なった人間が同一の対象から異なった仕方で刺激されることができるし、また同一の人間が同一の対象から異なった時に異なった仕方で刺激されることができる
ここでいう刺激による変化をスピノザは「変状」と呼ぶ。世間にはネガティブな変状を引き起こす刺激が多々あり、それによって自分をダメにされないために、自分にあう組み合わせを見つけることが重要になる。
「賢者」とは楽しみを知る人
多くの刺激の中で生きていくにあたって、楽しみ=「活動能力をあげるもの」を見つけ、接して行ける人こそ賢者だとスピノザは言う。
エチカとエソロジー
生物学は、動植物などの形態を分類し、記述することを基本とします。それに対しエソロジーでは、生物がどういう環境でどういう行動を示しながら生きているのか、つまり具体的な生態を観察し、記述するという研究方法をとります。
これはエコロジカルトレーニングに繋がる部分。生物学は、動植物の形態の分類・記述が基本であり、それに対してエソロジー(生態学)では具体的な生態の観察・記述が大切になる。分類してパターンに当てはめる=分類ではなく、生態系の観察、より帰納法的な考え方がもっとも重要になるわけだ。「エソロジー」と「エチカ」は同じ「エートス」=個人のあり方を語源としている。
エコロジカルトレーニングのような西洋のヨーロッパのトレーニング理論を理解しようとする時には、こういった思想まで理解しないといけなと思うと気が遠くなる。
おそらく優れた教育者や指導者というのは、生徒や選手のエイドスに基づいて内容を押しつけるのではなくて、生徒や選手自身に自分のコナトゥスのあり方を理解させるような教育や指導ができる人なのだと思います。
「自由」とは何か
人はコナトゥスがうまく働いて生きている時、自由である。そのように自由な人たちは、互いに感謝し合い(第四部定理七一)、偽りの行動を避け常に信義をもって行動し(同定理七二)、国家の共通の法律を守ることを欲する
コナトゥスが働いている時、つまりその人の持つ力が発揮されている時人は「自由」。一方でスピノザは「必然性」という言葉を使う。陸上に上がった魚は自由か?答えはノーである。魚は水の中でしか生きられない。つまり人間も同じでそれぞれの必然性の中でコナトゥスを働かせることが自由ということになる。
この必然性の中の「自由」は誰しも最初はわからず、自分の中で実験を繰り返して自分の中の「自由」の範囲を広げていくこと、その繰り返しで人間は自由になっていくとスピノザは述べており、つまり実験を通して人は自由になっていく実践を通して人が自由になっていく。そして自由というのはあくまで程度であり、「完全な自由」というものは存在しえない。
『確率思考』の話にも出てきましたけど1か0かという物事の観点ではなく、自由の度合いを実践的に少しずつ上げていく事は可能だと言うことだ。
スピノザの「自由」と旧来の「自由意志」
この「自由」という話は必ず自由意志と言う問題に突き当たる。
スピノザは、私が行為の原因になっている時──つまり、私の外や私の内で、私を原因にする何ごとかが起こる時──、私は能動なのだと言いました。
スピノザにとっての「自由」は能動的であることで、行動の原因が自分にあることではない。それは「自由意志」=「自発的」的な発想とは違う。
一つの行為は実に多くの要因のもとにあります。それらが協同した結果として行為が実現するわけです。つまり、行為は多元的に決定されているのであって、意志が一元的に決定しているわけではないのです。
「複雑系」の考え方に繋がる。余談だが、僕がお世話になっている人が「ケチな人間というのは、ケチだからお金を払わないのではなく、お金を払わないからケチなんだ」と言っていたことを思い出した。
心理と主体の変容
フーコーはその転換点を「デカルト的契機」と呼んでいます。デカルト以降、真理は主体の変容を必要としない、単なる認識の対象になってしまったというのです。
デカルトの登場以降、「エヴィデンス」だけが公的な証明に必要なものに変わりました。「自由」や「真理」すらも近代科学的に考えなければならない。スピノザの考えはその近代の呪いから抜けるヒントとなる。「自由」とは「活動能力を拡大」させ、自分を「変容」させることだ。そこに「自由意志」がなくとも、ただ自分の成長に目を向けて生きたい。
エコロジカルトレーニングの目的も、個々人の「活動能力」と「変容」を観察し、ポジティブに変化するように設計するものだと考えれば少し理解が深まった気がする。